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女優や専門家のファンも多く、一流店に必ず置かれている洛風林の帯。
30代の若さでその老舗の代表取締役となった堀江麗子さん。
気のきいた柄を世界中から集めて和のものとするおじいさまの遺志を受け継ぎ、
帯の面白さを日本中に伝えています。
いつ、どういういきさつで、跡を継がれることになったのですか。
堀江 2011年の4月に父が亡くなり、三姉妹の長女として、私が継ぎました。67歳という若さで父が亡くなってしまうとは思っていなかったので、そのときはとてもショックでした。ただ20代で洛風林に入ったときに、いずれはと決めてはいました。
洛風林は麗子さんのおじいさま、堀江武さんが立ち上げられたそうですね。本物の審美眼をもっておられた白州正子さんも、ここの帯をとても気にいっておられたようです。
堀江 白州さんもエッセイに書いてくださっているのですが、祖父は本当に行動力があって感性豊かな人でした。民藝の方達との交流があり、河井寛次郎さんや白州さんもうちにいらして、一緒に丹波の焼き物を見に行ったりしていました。帯に限らず、陶芸、絵画など趣味の合う人たちが集まっていて、どっぷりと西陣のものにこだわるだけでなく、ありきたりではない織や柄を開拓していったようです。
幼い頃の私は祖父母と過ごす事が多かったですね。祖父は「大丈夫、大丈夫」が口癖で。私が失敗して落ち込んでいても「楽しんでやればいい」といつも言ってくれました。
麗子さんはおじいさまとご縁が深かったのですね。
堀江 そうですね。祖父と同じように古いものが大好きで、小さい頃からうちの仕事をやるんだろうなあと思っていました。ただ父は一度も「跡を継げ」と言ったことはなかったです。
小さい頃からきものもよく着ていらしたのでしょう。
堀江 行事毎に着ていました。お正月はおきものに着替えて茶室で、家族で ご挨拶して、神社に初詣に行くのがきまりでした。
晩年、祖父は倒れたのですが、それでも句会はやっていたので、隣りに座っているのが好きでした。
句を詠まれたのですね。
堀江 洛風子、という俳名をもっていました。「岳鴉 啼いて紅葉の 山暮るる」といったような、色彩鮮やかな句が多かったですね。
倒れてからもリハビリで左手を治し、左手で帯の名を書いていました。私たちのお正月の祝い箸に名前を書いてくれていたのを思い出します。
素敵な思い出ですね。では後編では、そのおじいさまが遺された図案やこれからの麗子さんの時代の話をお聞かせください。

(インタビュー、文 / 森 綾)


Writer: 森綾

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